禅語【洗心】とは 心の垢をきれいに拭い去ること

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禅語

禅語「洗心」

厳しい冬の寒さの中にあっても私の住むお山は、その穏やかな山容の如く、温かみに満ちています。余寒厳しく、春なお浅き感ながら、お山の樹々を飛び交う小鳥の囀りや蕗のとうの発芽に、百花繚乱よりも春らしき感が胸に深く去来し、心が自然と熱くなるのを覚えます。

蕗(ふき)は菊科の多年草で、春とは名ばかりの寒い時期に、いち早く花穂を地上に出します。この花穂が「蕗のとう」です。葉が地下に隠れているので、大地の精霊の出現かと目を疑わせるほどの神秘さで、凍てついた土をひび割って瑞々しい緑の姿を現します。私たちが蕗のとうを摘んで、その風味を春の先触れとして感じるのは、冬の猛威を跳ね除けるその生命力を身に受け入れて、余寒の厳しさに打ち克つ力を得たいと願う欲求の現れと言えるでしょう。

人は誰しもかけがえのない人生を力いっぱいに生き抜こうと懸命の努力を続けておられます。苦難を跳ね除ける強さとは、日々を顧みて過ちがあれば正し、真摯に生きる努力を続けることです。人の心は本来、煩悩の汚れから離れていますが、現代社会においては不浄に濁ることも避けて通れません。それ故に、絶えず心の垢を拭い去る「洗心」に努める必要があるのです。

洗心に立ち返る努力を仏教では「慚愧懺悔」と申します。慚は自らの心に詫びること、愧とは天に詫びることです。再び過ちを繰り返さないことを誓い、真摯に生きていく努力を積み重ねてこそ、人生を決して悲観せず、いかなる困難も跳ね除ける強さが身につきます。

大自然の逞しさを心に刻まれ、過ちがあれば常に正す尊い姿勢と心で日々をお過ごしください。