禅語はオラクル

禅語の魅力

禅語を一言で表すのなら、「人を生かす言葉」です。

禅語には人を魅了して止まない教えが山ほどあります。教えというと、何やら上から目線を感じて、嫌な気持ちにもなられるかも知れませんが、禅語の意図はそこではありません。

禅語とはもともと、宗派や宗教を超えて、自らを鍛える意味で広く世界で親しまれている禅宗の、すなわち、自分自身こそが仏であるという教えを伝え、仏門に導くための言葉です。

禅宗の歴史

禅宗は鎌倉時代に日本に伝わった宗派ですが、古より武士など当時のエリート層に好まれ、時の政府からも推奨されてきた仏教です。なぜ、エリートが禅を学ぶのか。それは禅の教えが「自分自身に仏がある」という前提に、自己を修業によって、自分自身にある仏と向き合い、判断するという考え方(教え)が、自己鍛錬を求められた武士などの職種の人に受けたのです。米国で経営層が禅を学ぶ風潮があるのも、この流れです。

また、禅宗は「一揆」を起こしませんでした。それも自分が仏だから、という考え方が元になっているせいです。「南無阿弥陀仏」や「南妙法蓮華経」と唱える宗派は、南無、すなわち、私が信じる神は阿彌陀佛です。もしくは、私が信じるものは妙法蓮華経の経典です。との考えですから、一揆で戦っても、阿弥陀仏や経典が守ってくれるという他力な思想が背景にあり、素直に戦いに参加できたのです。当然、政府は一揆を起こされたくないので対立するのですが、一揆を起こさない禅宗は優遇されていくのです。

 

禅語は人生のヒントをくれます

さて、その禅語について、ですが、すでに人智で測った境界を越えて、宗派にもはや依存せず、独自の道を歩んでいるのが禅語です。世界で、また古代から、人に欲され求められてきた“禅”ですが、その禅のなんたるかを知るには、禅語もまた不可欠です。

 

時として「言葉は刃物」とも呼ばれるほど、人に鋭い刃先を突きつけます。なかには実際に傷つけたり、場合によっては人間を殺める力も持っています。この恐るべき力を備えた言葉のなかでも禅語は、(千年を超える歴史を持つような歴史に裏付けされるように)、人生に迷う人を救い、人を活かすパワーに満ちています。

それは、まるでオラクル(予言)のようです。

禅語は誰の言葉?

禅の言葉は高僧が生み出したものだけに限らず、詩人や要人の言葉が歴史から抜粋され、古から現代に至るまで広い時空で伝わり、残されてきた表現です。特に人を活かす語句が選ばれ、愛されて来ました。人生の生き方を説き、悩める人に生きるヒントを与えてくれるのが禅語の魅力です。背景にある歴史や言葉を発した人物の考え方や生き様など様々な要素が、禅語に凝縮され今に伝わってきました。

なぜ、禅語は人に愛されるのか?そのヒントはいくつかの禅語に触れることで、気がつくでしょう。

禅語「柳緑花紅」の持つ幅広い意味

例えば、春の季節を表した代表的な禅語に「柳緑花紅」(りゅうりょくかこう)という句があります。十一世紀の中国の詩人・蘇軾(そしょく)の詩から引用された言葉で、まず千年もの時を経て、今なお伝えられていることに驚きを隠せません。

言葉の意味は、単純に字面をなぞると、柳の葉の緑色と春を代表する花の紅色とが映える、天地自然のあるがままの春景色を表現した言葉です。

 

そこから感じ取れるものは、物事が自然のままに、人の手を加えられていない情景とは、全てのものを客観的に捉え、ありのままを受け入れようという意思の現れでもある、という詩的でかつ哲学的な発想です。

また、花が紅色に精一杯咲くことで柳の緑をますます引き立てるように、柳も緑色に輝けば、花の美しさを一層際立たせます。こうしたお互いの個性を発揮する自然界のように、人もまたそれぞれに個性を生かすことで、より良い世の中を作ることが大事なのだと諭していると捉えられます。

 

花と柳の二種類の春を代表する植物しか登場しないのに、多様な色彩に満ちた春の情景が目に映ります。こうした景色を想像するには、一日一日を精一杯、悔いなく生きる生き方をしなければ、心の底から風景を楽しめる気力を持てないという、観る人の感情を含めた生き方の課題も浮き出てきます。

さらに春の景色は、樹木や草花が厳しい冬の風雪を乗り越え、絶えることなく世代を引き継いできた証であり、次代に命を繋いでいく大切さと困難さを感じ取ることも出来ます。

禅語は魅力満載

これほど、多面多様な解釈ができるからこそ、禅語は魅力的なのでしょう。言葉は決して刃物であってはならない。そんな悟りも禅語から教えられます。人を活かす言葉、禅語。その魅力をこれからも伝えていきます。